Back
■ 【記憶に残る教育:僻地教育】 僻 地 研 秋田県退職校長会 顧問 佐 藤 俊 彦2025.11.08

 『秋田県僻地教育研究会』という僻地校の集まりがあった。任意団体ではあるが、(どこに本部があったかは記憶にないが)事務局があり、毎年秋田県大会が開催されていた。
 僻地校勤務教員は、新卒者や若手教員が多かったため、研究がなかなか深まらないという難点があった。ほとんどが数人規模の分校で、個人研究の差が表れやすい傾向もあった。要するに同僚同士の切磋琢磨や、ベテラン教員からの指導やアドバイスをもらえない環境にあった。そのため、県大会などの僻地間交流が勉強になったのである。
 私も一度は阿仁地方の僻地校の公開研究会に参加したことがある。車で、山の道をかなり深いところまでたどって行くと小さな小学校があった。複式学級が三クラス。少ない職員構成だが、熱心な先生たちと、真面目な子供たちがいた。
 二学年を一人の先生が教える「複式学級」は、教師が教科書を二冊持ち、同時間帯に二学年の子供たちに教えるため、普通学級の授業と違い、児童生徒の机の配置や複数の黒板の位置、OHPとスクリーンの位置など、独特の工夫があるのだった。
 用いられる指導案は、「複式用フローチャート」で、学年別の二本のフローで書かれている。子供たちは二学年だが、教師はひとり。一方の学年に直接指導しているときには、他方は間接的な学習(自学)となる。これが入れ替わるときに、教師が動くさまを渡り鳥の渡っていく姿になぞらえ「わたり」という。フローチャートでは、片方からもう片方の学習内容に向かって、点線で教師の動きを示すことによって表現される。ただ単に片方を投げ出すのではなく、自学ができるようにしてから「わたる」。これが「わたりの極意」と呼ばれる所以である。
 子供たちは自学中でも、教室の中の教師の声や友達の動きは見聞きできるので、下学年の子供たちが上学年の学習内容を覚えてしまうことがある。そのため、実技教科や実習的内容の場合に、同じ学習内容で取り扱うこともある。しかし学年が異なるため、「同題材異程度」という取り扱いである。
 しかし学年の達成レベルを決めて、そこで押さえ込んでしまうと、意欲を減退させる場合もあるため、伸びる子はどんどん伸ばす方法がとられることが多かった。この方が「個(の能力)に応じる」ということになる。楽器の演奏や絵を描くこと、詩や作文を書くことなど、表現力に関することは個々の感性の豊かさから生まれてくるため、効果的である。考えてみると,現代の授業研究に役立つ有意義な実践が多々存在していたのは事実である。「教育の原点は僻地教育にある」とも言われた。
 このように独特の指導を余儀なくされた僻地の授業であるが、こうした学習を支える教育機器も開発されていた。シンクロファックスという録音機器もあったが、音を拾いすぎるため、夜中の録音に耐えかねていた教師も多く、昭和四十五年ごろからのラジカセの出現で使用されなくなる。
 また、昭和四十八年には、秋田県県教育センターでも「小学校複式用指導事例集」の作成を手掛け(担当:千葉信一郎指導主事)、僻地校に配布することによって指導技術の向上に役立てようとした。
 昭和五十六年に文部省から「無理な統廃合をしないよう」通達があったが、分校の統廃合には歯止めがかからなかった。車社会の浸透によって保護者の通勤距離が延びて、僻地の不便さからの脱出・子供の養育のため幼稚園のある市町村に転居するなど、僻地から出ていく若者も増えた。学校規模の問題よりも、社会問題としての人口移動が顕著になっていったのである。
時代の奔流は、僻地にも押し寄せていた。
 僻地勤務の教員の間では「三年満期」という言葉が、密かではあったが囁かれていた。誰しも不便な僻地校への転勤希望をする者はいない。だが、僻地には指導を待っている子供たちがいる。よって、誰かが僻地校に勤務しなければならない。「(全員)一度は必ず僻地に行くこと。(三年経ったら交代するという条件で)」が教育委員会との間の「暗黙の了解」であったらしい。しかし、由利郡では一回りして、二度目の僻地勤務者が出ていたらしい。
 したがって「僻地教育研究会」の事務局の担当もほぼ三年前後に交替する、やがて僻地校の減少に伴い、この研究会も自然消滅してしまったのだ。どこかに、僻地教育研究の記録は、埋まってしまった。
当時、僻地校に勤務した若手教員たちは、もう七十歳代後半になってしまった。
(秋大中高課程美術科四十五年卒)