(四八豪雪と噴火に翻弄されて)
かつて(昭和五十年代まで)、秋田県内の山際の学校には分校があった。学区の沢ごとに部落があり、そこに分校が開かれていたのである。その ほとんどが僻地(病院や公的交通機関から遠い地域)であり、そこに勤務する教師の在り様は厳しく、全員に緊急対応用の「薬箱」が配給されるほど、過酷な生活環境が前提だった。 私の勤務する谷地沢分校は、矢島小学校の本校から片道十三キロ、標高差三百メートルで、鳥海山の山麓の台地(海抜三百九十メートル)にあった。月に一回の本校における職員会議に出席する際は、鳥海山の登山道を行き来するが、特に車の往来がかなわぬ積雪時は徒歩になるため、まさに「冬山登山」になり、命がけであった。 * * * 昭和四十七年三月三十一日、午後の矢島駅には島田先生ご夫妻が待っていた。駅留めの布団袋と柳ごおりを受け取りトラックに乗り込む。街並みを通り過ぎると、道はすぐ山道に差し掛かり次第に険しくなる。山腹を縫うように曲がる道に出ると、杉木立の間から鳥海の雄姿が目に飛び込む。冬枯れの山肌を残している山並みは幾重もの襞を見せて遥か遠くへと続き、澄み切った空気の中に鳥海だけが白かった。 雪囲いをくぐる。暗い玄関。裸電球の下に輝く十四個の瞳があった。これが、谷地沢分校の子どもたちとの出会いであった。 初出勤の日、四月というのに外は吹雪。風は天空の雪を伴い雪原を荒れ狂い、そこここに雪煙を舞い上げる。樹々は片方のみを白く染められ、枝は風下に大きく揺れる。土の見えた昨日の分校の周囲は、一変して白い世界となった。 やがて春は里からやって来て、冬を鳥海へと押し上げた。鳥の数が増した。草木が芽吹き、自然は大地から湧き上がる陽炎の中で揺らぐ。今日は、子どもたちとサシボッコを取りに行く。土を押しのけて頭を出した芽を摘み取る。夕食に初めて口にする山の味。箸のあたりは粘っこいが、少し酸味のある春の味であった。 五月、今日も田植えの人たちは移動している。 朝の霧が、雨になった。桜の花びらを完全に流し去ろうとするかのように雨は降りやまず、風の音も激しく窓を震わせている。時折鳴り響く雷は、腹の底まで響く重低音がしたかと思うと、同時に稲光が横に広がり、周囲の山々の稜線の木々の一本一本を浮き上がらせ、真昼のような明るさで包み込む。まるで、荒れ狂う雷のど真ん中に、放り込まれたような錯覚が生まれる。もうこんな日が三日も続く。土曜日の昼ごろに子どもたちが帰ってから、人間は誰も訪ねてこない。人の顔を見ないということが、こんなにも苦痛なものかと、憂鬱な天気をぼんやりと眺める・・・。 このようにして、否応なしに谷地沢分校での生活が進んでいく。鳥海山の気候の変動を通し、大自然の力を目の当たりにして、感性はもちろん人間の存在すらも揺さぶられた。雄大な鳥海山は、その激しい変化を見せながら、いかに人間が小さなものかを教えてくれている。ここでの冬は、もっともっと厳しくなるであろうことが予想されたが、この程度の変化は、ほんの始まりの始まりであった。実際には、想像をはるかに超えた厳しい冬の生活が待っていたのである。 * * * 一度目の冬(昭和四十七年)、村人たちは暖冬だと言った。しかし、酷寒の冬は鳥海山からやって来た。氷点下の朝が続く。銀色の雪原が光を増し、朝日に応える。明るく凍った陽の光が部屋の中まで入り込み、眠りから呼び戻す。机の上では、昨夜の飲み残しのお茶には氷が張っていた。新しく降った雪が、眩しいばかりに鳥海山を紺碧の空に浮かべている。山の冬は人間を変えると、誰かが言っていたが・・・。 本校の職員会議に出た帰り道、背中のザックに肉や野菜を詰め込み、水上(みずかみ地区)から山道に入った。人家が見えなくなるあたりで、昼過ぎの下山の際に私について一緒に山を降りてきた部落の犬が、何処からともなく現れて、私の横を歩いた。上るほどに夕闇を濃くしていく山々。最後の峠を越すあたりで、犬は歩みを止めた。じっとして動かない犬の視線の先には、月明かりの下、雪原を渡って行く白く大きな狐が見えた。ふさふさの尻尾をなびかせ、音もなく声も発せず、悠然と走る姿は、鳥海山に住む神の化身に見えた。 朝夕に素晴らしく美しい姿を見せる鳥海山の懐で、二年目を迎えた。このころになると、絵を描いていた私は、自然のあまりの美しさに圧倒されて、もう絵は描けなくなっていた。 夏に「鳥海登山」を企画した。子どもたちのサポートをお願いするため村民にも呼びかけた。いざ登り始めると、子どもたちの方が元気だった。一年生の熊谷透君のペースに合わせて登るのだが、秋山のおばさんと真理子さんのお母さんが最後尾となっていた。全員、山頂まで達し、感動の汗を拭いた。次の年には、この後襲ってくる大事件のため、登山禁止になることなど夢にも思わず、「来年も来ようね」と言葉を交わす。 * * * 二度目の冬(昭和四十八年)、ススキの穂が開いて白い風になるころ、憂鬱な厚い雲に覆われる日が続いた。冷たい雨が雪に変わって、どんどん積もっていく。昨年よりも、はるかに量が多いのである。あっという間に、電柱の上を少し残し、電線を雪の下に抑え込むほどの高さになった。分校も桃野地区の家々も雪に埋まった。雪原のかすかなふくらみの下で牛を飼いながら、ひっそりと暮らす村人の姿があった。矢島町の教育委員会からは、屋根の雪と平地の雪がつながらないように、常に切っておくように指示されていたので、毎日朝から雪降ろし。昼ご飯を食べて、また雪降ろし。玄関に降りる穴も深くなり、獣の巣の入り口のようになった。 一月末、職員会議のため、スキーを履いて、一人で山を下る。花立牧場を過ぎたころから吹雪になった。昨年から通いなれた尾根づたいのコースを滑り降りる。しかし、横殴りの吹雪に遮られて視界が開けない。籠立場(かごたてば・傾斜が急で殿様を乗せた籠が立ったと言われた坂)の上に差し掛かったころ、傾斜が少しきつくなった。そのまま松林の中を進んで行くと、傾斜はどんどんきつくなった。このままでは、予定コースよりかなり手前で下ってしまう。そこで思い直し、坂を登った。少し行くと、見覚えのある松の木と小屋が見えた。その瞬間、とてつもない恐怖が襲った。さっきまでいたところは、崖のヘリだった。あのまま僅か三十秒ほど直進すれば、崖の下に転落していた。春になって、雪が溶けるまで発見されない。そう気付いたら、顔からザーッと血の気が引いて、脇の下から冷や汗がどっと噴き出した。体が震え、動けない。命の危機が、こんなにも近くに存在したことに、気づいたとたんに湧き出した恐怖であった。 しかし、鳥海山の冬の神は、もう一つの試練を準備していた。次の職員会議は、畠山憲司先生と一緒に下山した。この日は天気が良く、花立牧場からはロータリー除雪車の作った雪の回廊を歩いて降りた。午後からの職員会議を終えて、黒雲に隠れてしまって見えない谷地沢方面を気にしながら、二人で登り始めた。しかし、上るにつれ、道は下山した時とは状況が一変していた。荒ぶる山の神の冷気が、吹きすさむ大嵐になって大地を攻撃していた。上るほどに道路の雪が深くなり、足にまとわりつく。熊の子沢を過ぎるころになると、ラッセル状態になって来た。やっとの思いで花立牧場の台地の上にたどり着くと、猛吹雪が西の海側から押し寄せていて、下山の時にはあった除雪車の作った回廊は痕跡すらなかった。とにかく雪交じりの風が強い。襟巻を鼻まで上げて呼吸する。その湿気が、口元で凍っていくのがわかる。雪の中で膝をつき、手で雪をかき分け体を前に押し出す。この作業を繰り返す。花立牧場の門から看板まで、確か百メートルぐらいあったかと思うが、この距離を移動するのに一時間かかった。帽子や襟巻は凍りつき、懐中電灯の光は弱くなった。四時ごろ歩き始めたのが、もう九時を回っていた。「遭難」の二文字が、何回も頭をよぎるが、気力と体力が不安を打ち消していた。 もう少しで谷地沢の部落の上の尾根に到達する。その時、前方に明かりが見えた。近づくと、村の郵便配達をしている佐藤順一君のおじいさんであった。先生たちが水上を四時ごろ上ったということを聞いたが、まだ着いていないと知り、カンジキを持って探しに来たということであった。情に厚い人たちであった。坂を下って、谷地沢の部落についた。分校までは、もう一息である。佐藤さんに「温まっていけ」と言われて、その誘いに甘えた。囲炉裏で冷え切った体を温めた。あったかいカップラーメンをいただくと、張っていた気持ちが一気に抜けて、囲炉裏の横で眠ってしまった。囲炉裏の暖かさと、この人たちの温かさは、一生忘れられないものとなった。 分校の教師として存在することに「命」がかかるという現実。この厳しさは下界の学校には無い。さっきまで職員会議に同席していた仲間の職員が、雪の中を分校まで帰るために、五時間以上もかけて冬山を上り、今まさに遭難寸前の状況と戦っていることなど、夕食の団らん中の時間帯であろう本校職員の頭をよぎることすら無いのである。 * * * 毎日、朝から晩まで雪寄せ。電話線も雪に埋まり、冷え込んだ翌日は、接合部分が凍って断線し不通になる。隔離された山奥の生活は、村人たちをも疲労困憊の状況に追い込んでいた。 出稼ぎの男たちの留守を守り、牛飼いと除雪に明け暮れる村人たち。疲れた顔の彼らが分校を訪れる時には、薬箱から栄養剤を取り出して、そっと手渡したことも一度や二度ではない。 しかし、そんな押し込まれたような雰囲気をはねのけるような出来事が勃発した。昭和四十九年三月一日、鳥海山が噴火した。百五十三年ぶり。分校の外へ飛び出した。黒い噴煙を上げる鳥海山。豪雪に耐えていたあらゆる生き物の気持ちを代弁した「命の叫び」に見えた。 その日から、子どもたちと一緒に観察記録を取り始めた。黒い噴煙は長い尾を引き、北の空へと流れる。泥流が千蛇谷を下る。毎日テレビで放映されるが、噴火口から直線で十五キロに位置する分校の私たちは、目視で観察している。「山の子たちの観測所」は、朝日新聞に載った。私の写した写真は、矢島町の広報紙の表紙を飾った。豪雪で忘れられそうだった谷地沢分校は、突然の噴火で脚光を浴び、急に忙しくなった。 この後、除雪の重機は分校はおろか花立牧場までも上がってこなかった。噴火に伴い、隣の鳥海町の百宅・猿倉・直根などの部落までの道 路をあけるため、近隣の市町村の除雪重機が支援投入され、フル稼働していたと聞いた。 この年、花立牧場までの道路が開通したのは四月中旬になってからであったが、それまでは矢島町の雪上車が、村人の安全確認と花立牧場の牛乳を運搬するために村内を一周するのだが、そのキャタピラが作った圧雪の二本の道が、かろうじて外の世界と通じていたのである。 * * * ただでさえ厳しい山の生活。それに加えて四八(よんぱち)豪雪と鳥海山の噴火。偶然とはいえ、大きくしかも厳しい出来事が、いくつも重なって押し寄せた二年間の分校生活。ここで生きるということの中で、霊峰鳥海山の神の啓示を何度も見せられた気がしてならない。自然の厳しさを内に秘めた千変万化の美しさ、ここに住む人たちの素朴で真摯なひたむきさ。命を輝かせて、今を生きることの大切さ。 そして、鳥海山の懐深く、未熟な私がここで暮らしたことの意味は、未来を有意義に生きるための「人間としての構えの形成」にあったのだと気付かせられた。何かを成すために、自分の意志とは掛け離れた大きな力で、生かされている自分がいたような気もした。 厳しい冬が長い山国。ひっそりとたたずむ谷地沢の部落。それにしっかりと耐えている人々や樹々。その内奥に豊富なものを深くたたえながら、なんと鳥海山は孤独なことか。 (秋大中高課程美術科昭和四十五年卒)
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